WINE・WANDERING ワイン彷徨通信
 
 
024「ブラジルワイン紀行 その12 エスプマンチの大地 ガリバルディ」

人口3万人ほどの小都市、ガリバルディとその周辺には、エスプマンチ(スパークリングワイン)の醸造所が集中している。そして、エスプマンチ街道(Rota dos Espumantes)という名の通りが、それらの醸造所を繋いでいる。

「ガリバルディのテロワールはエスプマンチのためにある」。2004年に初めてガリバルディを訪れた時も、2008年に再訪したときも、多くの醸造家がこう言うのを耳にした。ガリバルディ市の入口には「Terra do Champanha(シャンパンの大地)」と刻まれた道標もある。

シャンパンという名称を、シャンパーニュ地方以外のスパークリングワインに使用することは禁じられている。しかしブラジルでは、少し事情が違う。

〈ペーターロンゴ醸造所 ブラジル初のシャンパン〉

ガリバルディのエスプマンチの歴史を語る上で、外すことができないのが、ペーターロンゴ醸造所。イタリア、南チロル地方出身のペーターロンゴ家が1913年に創業した。玄武岩でつくられた立派な醸造所には、南米初の地下カーヴがある。所有畑は15ヘクタールだが、300の提携農家からもぶどうを購入している。

この醸造所は、ブラジルで初めて、シャンパーニュ製法(伝統的瓶内二次発酵製法/伝統製法)のエスプマンチを生産したことで知られる。1915年のことだった。フランスのジョルジ・アウヴェール社が1951年に進出するまでは、ブラジルでは唯一のエスプマンチの生産者だった。同じくフランスのシャンドン・ド・ブラジルの進出は1973年になってからである。

フランスがシャンパーニュという名称を保護したのは1927年。その時点ですでにペーターロンゴ醸造所は、約15年にわたって「シャンパーニュ」を生産していた。このような背景があるため、同社は伝統製法のエスプマンチを、堂々とシャンパーニュの名称で展開している。

フランス側が納得しているのかどうかは知らないが、ペーターロンゴ側の言い分によると、この件はすでに解決しているのだという。つまり、ペーターロンゴ醸造所では、フランスでの法規定以前からシャンパーニュの名で伝統製法のエスプマンチを生産をしていたという理由で、シャンパーニュという名称を使用できるというのだ。ただ、それは、製品をブラジル国内で展開する限りにおいて。輸出商品には使えない。

家族経営の醸造所だったペーターロンゴ醸造所は、男性の後継者に恵まれず、肝心の伝統製法のエスプマンチの生産が中断していた時期がある。それが復活したのは2002年になってから。この年、やっと企業のバックアップがついたのである。

美しい醸造所は、1920年代に建設されたもので、裏庭からは、スロープ状のトンネルをくぐって、セラーに辿り着くことができる。冷却設備がなかった時代、ルミアージュのすんだボトルを、早朝、このトンネル経由で寒さの厳しい屋外に出し、デゴージュマンを行っていたそうだ。歴史を感じさせる醸造所は博物館も兼ねており、ガリバルディのエスプマンチの歴史が肌で感じられる。

〈カサ・ペドルッチ ブラジリアン・ガレージ・ワイナリー〉

カサ・ベドルッチは、20年間ペーターロンゴ醸造所の醸造責任者を務め、ブラジリアン・エスプマンチの品質向上に尽力してきたジルベルト・ペドルッチさんが、2001年に立ち上げた醸造所。モンチ・ベロに近い醸造所の周囲に、人家はほとんどなく、所々に昔ながらの棚式のぶどう畑が見えかくれする。醸造所は石造りの簡素な平屋だ。

「ペーターロンゴ醸造所の2000年ヴィンテージの収穫が、まったく思わしくなかったんだ。その時、もしもっと小さな醸造所だったら、悪天候の年でも、手間をかけてより良いエスプマンチを造ることができるのに、と切実に思った。その時、自分で醸造所を立ち上げることを考えたんだ」。そうジルベルトさんは言う。

彼の行動は早かった。廃墟同然だった、古い石造りの家を買い取り、週末を利用して少しずつ修復し、設備を揃え、醸造所をすこしずつ完成させた。2000年ヴィンテージはガリバルディで栽培されたカベルネソーヴィニヨン、タナ、メルローのアッサンブラージュ。農家から購入したぶどうと、他のワイナリーの設備を使って醸造した。生産本数は9200本だった。2001年ヴィンテージは生産することができず、2002年にメルローと、カベルネソーヴィニヨンをそれぞれ5000本ずつ生産。エスプマンチの初ヴィンテージは2002年のブリュット。リースリング・イタリコ、ピノ・ノワール、セミヨンのアッサンブラージュで、1800本生産した。

2004年に訪れたとき、カサ・ペドルッチ醸造所のワインやエスプマンチを、ファーストヴィンテージからテイスティングできたことを光栄に思った。考えてみれば、当時、ある醸造所のファーストヴィンテージを味わうなど初めての経験だった。

それにしても、ジルベルトさんのカベルネソーヴィニヨンのフルーティで美味しいこと。エスプマンチもとてもフレッシュ&フルーティに仕上がっている。「シャルドネより、リースリング・イタリコのほうが、爽快な味わいで、ブラジル的でしょ」そう彼は言う。

「僕は、ブラジル国内で売る赤ワインにオークはいらないと思っている。ブラジルの赤はフルーティで、ライトであるべき。ブラジルのライフスタイルに合った、チラゴスト(おつまみ)に合わせて飲む、気軽な赤であるべきなんだ」。ジルベルトさんの赤は、20度くらいで低温発酵させたもので、マセラシオンは約8日。ボディは軽めだ。

「ワインのグローバリゼーションが進んで行くなかで、ブラジルワインが生き残っていくためには、ブラジルらしさを打ち出していかなければならない。ブラジルというと、どっちかというと、エスプマンチのほうがイメージ的に合うね」とジルベルトさん。私も、ブラジルはエスプマンチの国、という気がする。

数千本のワインがストックされただけの、まだがらんどうの醸造所で、ジルベルトさんの話は尽きなかった。「この醸造所はあと5年かけて完成させるつもり。ワイン造りと一緒で、急いじゃいけない。醸造所が完成したら、少し増築して、いつかレストランも開業したいんだ」。ジルベルトさんのお父さんはチーズ職人だったそうで、ジルベルトさんの趣味は料理なのである。

その後、ジルベルトさんとは、2009年の2月、ベント・ゴンサウヴェスのフェナヴィーニョの見本市会場で再会した。カサ・ペドルッチ単独のブースを出しておられ、醸造所も徐々に整ってきたとのことだった。テイスティングさせてもらったのは、2種類のシャルマ製法のエスプマンチ。ブリュット・ロゼ(ガメとピノ・ノワールのアッサンブラージュ)と、ブリュット(シャルドネとリースリング・イタリコのアッサンブラージュ)。ブリュットを口にすると、2004年の訪問時の記憶が蘇ってきた。

〈ジョルジ・アウヴェール醸造所〉

1875年創業のジョルジ・アウベール醸造所(シャンパーニュ地方)のブラジル進出は1951年。1998年からは3企業の共同経営という形態をとっている。正式な社名はシャンパーニュ・ジョルジ・アウベール。当初から、自社ではぶどう栽培をせず、100を越える提携農家からぶどうを買い取ってエスプマンチを生産。主にセハ・ガウシャ地方のぶどうだが、モスカテル種だけは、北東部バイーヤ州のサンフランシスコ川流域にも提携農家があるという。

ジョルジ・アウベール醸造所を訪問したのは2004年。エントランスに60品種ものぶどうがサンプルとして植えられており、醸造所内にはワイン博物館、イタリア移民博物館が併設されている。同醸造所で28年間エスプマンチを製造している、醸造責任者のローレンソ・ジャッカーロさんの案内でセラーを見学した。

同社はスティルワインも生産しているが、主力製品はエスプマンチ。醸造方法は全てシャルマ製法である(当時)。また、同醸造所は1970年にブラジルで初めて赤のエスプマンチを生産したことでも知られている。

ローレンソさんは、初めてこの醸造所にやって来た時、まずぶどうの品質の向上に取り組んだと言う。農業エンジニアと共同で、ぶどう栽培農家に、栽培システムや畑の手入れなどを指示し、より良い品種を取り入れて行ったのである。ピノ・ノワール、シャルドネ、リースリング・イタリコ、プロセッコなどは、彼の代になってから栽培されるようになった品種だ。

ローレンソさんも、セハ・ガウシャの土壌と気候は、白ワイン品種によりふさわしいと言う。「降水量、海抜、気温などを比較してみるとね、このあたりはシャンパーニュ地方に似通っている。充分に熟していながら、エスプマンチに必要な酸味も持ちあわせたぶどうが収穫できる。セハ・ガウシャ地方はエスプマンチにふさわしい場所なんだよ」

タンクの中で二次発酵中のシャルドネをテイスティングさせていただいた。シャルマ製法の密閉タンクを見たのは、この時が初めてだった。5バールの圧力で泡を閉じ込めている密閉タンクから、二次発酵がほぼ終わりつつあるシャルドネをグラスに注いでもらう。フレッシュで、フルーティな香りがアクセントになったシャルドネだった。

最後にブリュットと現在人気急上昇中のプロセッコをいただいた。ブリュットはシャルドネ50%、リースリング・イタリコ50%というブラジルならではアッサンブラージュ。やさしい香りと味に魅せられる。プロセッコのほうはプロセッコ100%。軽快でとてもさわやかな味だった。

(注/ジョルジ・アウヴェール醸造所はその後倒産。)
 
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