BACK TO HAMBURG 追憶のハンブルク・未知のドイツ
 
 
015「デンマーク領だった街角 アルトナ」

ハンブルク、アルトナ(Altona)地区。ハンブルクの終着駅があるこの地区に、1996年から1998年まで事務所を構えていた。事務所があった通りや、ご紹介したい通りについては、別の機会に書くことにして、今回は、アルトナ地区のお話をー。

古文書によると、アルトナのおこりは14世紀末。16世紀頃のアルトナは、小さな漁村だったそうだ。現在、アルトナの一角にオッテンゼンという地区があるが、以前は、新興村であるアルトナが、それ以前からあったオッテンゼンに包括されていたという。当時、アルトナには、黒ビールを醸造する酒場があり、その周囲に手工業労働者や漁師たちが移り住むようになり、村ができあがったと言われている。アルトナの核だったそのビール酒場は、今日のペーペルメーレンベック(Pepermölenbek)というレーパーバーンの西端とフィッシュマルクトを結ぶ通りにあったと言われている。

アルトナという名前の由来には2つの説がある。1つは、アルトナ地区が当時のハンブルク市議会政府の目からみると、市壁(市境)に「あまりにも近い(allzu nah/アルツー・ナー)」場所にあったから、という説。もう1つは、この地域に流れていたアルテナウ(Altenau)という小川から命名したという説だ。

時は17世紀、神聖ローマ帝国領を舞台に起こった三十年戦争(1618-1648/下に注釈)で、スウェーデンとデンマークが北ドイツ一帯を狙っていた時、デンマーク・ハンブルク間の抗争に巻き込まれたアルトナは、1640年から1806年まで、神聖ローマ帝国の一部でありながら、デンマーク王の管轄地域となり、神聖ローマ帝国崩壊後も、1864年までデンマークの管理下に置かれた。つまり、アルトナは1640年から1864年までの224年間、デンマーク領だったのである。ただ、1664年からは自治権が認められていた。

アルトナという地域には、三十年戦争以前から、ハンブルクと比較して、様々な宗教、宗派、言論において、寛大な、自由な空気があったという。そういえば、ユダヤ人墓地があるのもこの地域だ。

1683年、アルトナに開校した市立ラテン語学校は、現在、オートマルシェン(Othmarschen)にあるギムナジウム「クリスチアヌム(Christianeum)」の前身。学校名はデンマーク国王クリスチャン6世に由来する。この学校は、多くのユダヤ人の子弟が学んだことで知られている。

また、驚くほど長期にわたって発行されていた「アルトナイッシェ・メルクリウス(Altonaische Mercurius)」(1698-1874)と「アルトナイッシェ・ライヒスポスト・ロイター(Altonaische Reichs-Post-Reuter)」(1699-1789)の2つの新聞も、アルトナで誕生した。当時のアルトナは、重要なニュース発信地でもあった。1850年にスタートした「アルトナエー・ナハリヒテン(Altonaer Nachrichten)」もアルトナ生まれの初の日刊紙で、ハンブルクでも読まれていた。この新聞が、現在も発行されている「ハンブルガー・アーベントブラット(Hamburger Abendblatt)」の前身だ。

18世紀初頭のアルトナは、大北方戦争に巻き込まれて焦土と化し、ペストにも襲われたが、デンマーク政府の新都市計画により再建された。そして19世紀、アルトナは、コペンハーゲンに次ぐデンマーク2番目の大都市に発展していた。そこには、オランダ改革派、フランス・ユグノー派、メノナイト、ユダヤ人、手工業組合に加入していない職人たちといった、ありとあらゆる人々が集まっていたという。この時代には、アルトナは「ハンブルクの美しい妹」と呼ばれ、現存するクライネ・フライハイト(Kleine Freiheit/小さな自由)、グローセ・フライハイト(Grosse Freiheit/大きな自由)といった名前の通りが生まれた。

第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争(1863-64)で、デンマークがプロイセン・オーストリア連合軍に破れると、アルトナは1864年から1866年までオーストリア領に、そして1867年から1871年まではプロイセン領に、そしてドイツ帝国成立とともにドイツ領となったのである。

注1/三十年戦争は、カトリック派とプロテスタント派が対立した宗教戦争であり、ヨーロッパの覇権を狙ったカトリック派のハプスブルク家と、それに対抗するプロテスタント系の国々(イングランド、デンマーク、スウェーデンなど)が複雑に入り組んで戦った国際戦争だった。
注2/グローセ・フライハイト、クライネ・フライハイトは、現在、アルトナ地区ではなく、ザンクト・パウリ地区に属しています。

〈コペンハーゲナーのお話〉

日本でデニッシュ(デンマークのもの)と呼ばれる菓子パンのことを、ドイツではコペンハーゲナー(Kopenhagener)、またはプルンダー(Plunder)と言う。本場デンマークではスパンダウアー(Spandauer)といい、1840年代にコペンハーゲンにあった王室御用達のパン工房が製造していた。とはいえ、その製造技術は、ウイーンのパン製造元で修業した、オーストリアやドイツの遍歴職人がもたらしたものだった。ウイーンでは、イースト入りの生地とバターが使われていた。

コペンハーゲンでは、もともとパン職人だけにスパンダウアーの製造が許可されていたが、1857年からは菓子職人にも製造許可が出た。菓子職人には、砂糖、スパイス、生ものの使用が認可されていたため、コペンハーゲナーにいろいろなバリエーションが生まれた。伝来直後はバターが使用されていたが、バターが高価だったため、非常に贅沢なお菓子だった。

1860年に、ナポレオン3世の命で、バター不足対策として、フランス人の化学者メジェ・モリース(Mége Moúries)がマーガリンを発明すると、デンマークでも早速マーガリンが使用されるようになった。そして、バターよりマーガリンを使用するほうが、より繊細で、軽やかなスパンダウアーができるようになったという。デンマークでは、高品質のマーガリンの製造も進化した。スパンダウアーの美味しさの秘密は、イースト生地に薄くのっかるように何十にも折り込まれたマーガリン層によるものだという。

デンマークのスパンダウアーはドイツのコピー商品とは比べ物にならないほど美味しい。デンマーク時代のアルトナでは、きっとスパンダウアーがつくられていたことでしょう。

 
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