BACK TO HAMBURG 追憶のハンブルク・未知のドイツ
 
 
007「失われたチャイナタウン シュムックシュトラーセ」

よく知らない都会で、ラーメンを食べたくなると、足はもう、チャイナタウンに向かっている。ロンドンでも、パリでも、ニューヨークでも、ブエノスアイレスでも、チャイナタウンは必ず足を延ばす場所だった。

私の故郷、神戸にもチャイナタウン(南京町)があり、その異質で、それゆえ魅惑的で、けばけばしい一角がとても好きだった。そして、神戸とほぼ同規模の港町であり、中国人が多く住んでいるハンブルクに、チャイナタウンがないことを、長い間不思議に思っていた。

ハンブルク生まれの友人たちに、機会あるごとに「どうしてハンブルクにはチャイナタウンがないの」と尋ねてみたが、いつも曖昧な答えしかかえってこなかった。「さあねえ」。「ハンブルクの人は群れないから、ハンブルクの中国人も群れないんだよ」とか、「ドイツにやってきている中国人は独立心が強いから、チャイナタウンは必要なかったんだ」などと根拠のないことを言うドイツ人もいた。結局、真実はわからずじまい。そうして、私は、いつしか、チャイナタウンについて思いをめぐらすことをやめてしまった。

ところが、2年前に、もとライネマン(Leinemann)というバンドのパーカッショニスト、ウルフ・クリューガー(Ulf Krüger)氏に出会って、長年の疑問がとけた。現在、音楽関係のエージェント業を営むウルフは「Beatles in Hamburg (ハンブルクのビートルズ)」(Ellert & Richter Verlag刊)というビートルズ辞典の著者でもあり、ハンブルク時代のビートルズについて独自に調査した膨大な情報を持っている。このビートルズ辞典にチャイナタウンのことが書いてあったのだ。

同著によると、無名時代のビートルズは、シュムックシュトラーセ(Schmuckstrasse)にあった、安い中華料理の店によく出向いていたという。そしてこのシュムックシュトラーセこそが、かつてのハンブルクのチャイナタウンの核を成していたというのだ。

1944年、チャイナタウンの中国人たちは、ナチスによりフュールスビュッテルの収容所へ強制連行され、その後、各地で強制労働させられた。生き延びた中国人のほとんどが、戦後故郷へ戻ったという。つまりハンブルクのチャイナタウンはナチスによって解体されたのだった。それでも、ビートルズがいた60年代のはじめには、シュムックシュトラーセに、まだ中華の店が2軒あったそうだ。ひとつは9番地の「Chum Yuen Poon」、もうひとつは11番地の「Kwei Tsai Sze」。ともにビートルズの面々が通いつめた店に違いない。

SUSHI BAR KAMPAIの榎本五郎さん(006「赤ちょうちんからKAMPAIへ」参照)が書かれた未発表の本「ドイツの八つぁん、熊さん」の中の1章、「ホテル「香港」の常夜灯」にも、ハンブルクのチャイナタウンの話が書かれてある。榎本さんの店の向かいのホテルは「Hong Kong」という名の木賃宿。入口が薄暗いバーになっている。このホテルの女将の亡くなられたお父さんも、当時ナチスに強制連行されたという。

秋も深まったある日、シュムックシュトラーセを歩いてみた。タールシュトラーセ(Talstrasse)とグローセフライハイト(Grosse Freiheit)を繋ぐ、レーパーバーンの裏通り。11番地は新築のアパートだったが、9番地の建物は古く、1階は空き家のまま。ここに中華料理屋があったのだろうか。通りの片側は緑地帯で、殺風景な場所だ。緑地帯の中の、檻のような小さなサッカーコートの手前に、ここにチャイナタウンがあったことを解説するささやかな看板が立っていた。

やっぱり、ハンブルクにも、チャイナタウンはあったのだ。
 
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