BACK TO HAMBURG 追憶のハンブルク・未知のドイツ
 
 
014「ビートルズの足跡 グローセフライハイト」

「僕はハンブルクで育った。リバプールでじゃない」今は亡きジョン・レノンの言葉だ。

1960年5月、ジョン・レノン、ポール・マッカートニー、ジョージ・ハリスン、スチュアート・サトクリフ、そしてトミー・ムーアの5人は、リバプールで「シルバー・ビートルズ」というバンドを結成した。

ちょうどその頃、ハンブルクのイヴェント屋、ブルーノ・コシュミーダーは、自ら経営するナイトクラブで演奏してくれそうな、イギリスのバンドを探していた。彼が、リバプールのビジネスパートナーで、「シルバー・ビートルズ」のマネージメントを一時的に担当していた、アラン・ウイリアムズに相談したことから、「シルバー・ビートルズ」がハンブルクにやって来ることになったのである。彼らの来独は、1960年8月16日ごろだった。

来独直前の8月12日に、ドラマーはトミー・ムーアからピート・ベストに交代、そして、8月17日(18日という説も)から、異国の港町で、「シルバー・ビートルズ」改め「ビートルズ」のバンド名での活動がはじまった。

当初ビートルズは、ハンブルクの歓楽街にあるグローセフライハイト(Grosse Freiheit)64番地の「インドラ・クラブ(Indra Club)」で、毎晩、長時間にわたる演奏を行った。このハードワークによって、彼らのレパートリーは増え、アドリブが上達し、ミュージシャンとしての自信が徐々に確立されていったと言われている。

ハンブルクは単に無名時代のビートルズの活動の場ではなく、「ビートルズ」が名実ともに誕生した場所なのである。だからこそ、ジョン・レノンは「僕はハンブルクで育った」と言ったのだろう。

その後、「インドラ・クラブ」が騒音問題で閉鎖され、同年10月から11月にかけて、ビートルズは同じ通りの「カイザーケラー(Kaiserkeller)」で演奏するようになった。この時、彼らは、ともにカメラマンである、アストリット・キルヒヘアとユルゲン・フォルマー、そして当時アストリッドのボーイフレンドだった、アーティストのクラウス・フォアマンに出会う。

やがて、アストリットとベーシストのスチュアート(スチュ)は恋に落ち、アストリットは、今なお名作として高く評価されている、ハンブルク時代のビートルズの優れた写真の数々を撮影した。

後にビートルズのトレードマークとなる「モップ・トップ」と呼ばれるヘアスタイルは、カメラマンのユルゲン・フォルマーのアイディアだった。彼自身、アストリットやクラウスと知り合う以前から、「モップ・トップ」スタイルにカットしていたのである。

ビートルズは「カイザーケラー」で、後にドラムを担当するリンゴ・スターとも出会っている。1960年の暮れ、ビートルズは一旦ハンブルクを去るが、スチュは、ビートルズを辞め、ハンブルクのアストリットの元に残った。しかし彼は、1962年の春、21歳という若さで脳出血で亡くなってしまう。

その後、ビートルズは、ジョン・レノン、ポール・マッカートニー、ジョージ・ハリスン、ピート・ベストの4人構成で、1961年には、レーパーバーン(Reeperbahn)の「トップテン・クラブ(Top Ten Club)」で、また、1962年からは「トップテン・クラブ」を真似てオープンしたばかりの、グローセフライハイトの「スタークラブ(Star Club)」でも演奏した。その後の、彼らの世界的な活躍を知らない人はいない。しかし全ては、ドイツの北の果て、ハンブルクの、グローセフライハイト界隈で始まったのだ。

ビートルズ時代はストリップクラブだったと言われる「インドラ」は今も64番地に残っており、現在は通常のミュージック・クラブとして営業している。(現在は閉業)「カイザーケラー」はグローセフライハイト36番地にあった700人収容のクラブだったが、現在そこには「グローセフライハイト36」と「カイザーケラー」いう2つのクラブが同居している。「スタークラブ」はもう存在しないが、クラブがあった39番地には記念碑が建っている。レーパーバーンにあった「トップテン・クラブ」も、もうない。

2009年9月、グローセフライハイトとレーパーバーンが交わる場所にビートルズプラッツ(Beatles Platz)という名の新しい広場ができた。レコードの形をした円い広場には、スチュアート・サトクリフを含む5人を模した金属製のオブジェが並んでいる。そこから近いノービストア10番地にはビートルズ博物館、ビートルマニア(Beatlemania)もオープンしている。(2012年閉館)

ところで、グローセフライハイト(大きな自由)という通り名は、1本西にあるクライネフライハイト(小さな自由)とともに、17世紀に付けられたもの。当時、アルトナ地区に所属し、デンマーク領でもあったこれらの通りには、職業別組合に所属しない商工業者やあらゆる宗教団体が集まっており、「自由」は職業における自由や信教の自由を意味していたそうだ。

(かつてドイツ・ニュースダイジェストに掲載した記事「ビートルズが誕生した街角」に少し加筆しました。)
 
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