BACK TO HAMBURG 追憶のハンブルク・未知のドイツ
 
 
026「芸術と犯罪の狭間。ハンブルクにスマイルを運んだグラフィティ・アーティスト OZ」

ハンブルクのグラフィティ・アートシーンの重鎮であり、市民にもその名を良く知られていたアーティスト、OZ(オズ)が亡くなって1年が経った。

2014年9月25日22時30分ごろ、彼はハンブルク中央駅とベルリーナー・トア駅の間でグラフィティ制作中、Sバーンに轢かれて死亡した。64歳だった。

ハイデルベルク出身のオズの本名はヴァルター=ヨーゼフ・フィッシャー(Walter Josef Fischer)。シングルマザーの子として生まれ、カトリックの寄宿舎に預けられ、家族を知ることなく育った。口蓋裂であったため、何度も手術を受けたという。美容師、庭師修業をしたが、いずれも挫折。初めて公共の場にグラフィティを描いたのは27歳の時、シュトゥットガルトでだった。その後、彼はヨーロッパのほか、インド、タイ、インドネシア、アフガニスタンなどを旅したという。

オズがハンブルクにやってきたのは1992年。42歳の時だった。彼はまず黒いスプレーで「スマイリー」を描き始め、やがて「OZ.」の署名、独特の渦巻き、そして抽象的でカラフルな大型のグラフィティを描き始める。「オズは2002年までに市内12万カ所にグラフィティを描いた」とハンブルク警察が発表している。

90年代のハンブルクは、あちこちに増殖するオズの「スマイリー」とともにあった。彼は手当り次第どこにでも描いたわけではなく、線路脇の壁面や防空壕のファサード、配電ボックスなどが彼のカンバスだった。オズは、灰色の街を「きれいに」したかったと語っていたそうだ。

芸術的行為ではあっても、公共施設などを落書きで汚すことは器物破損となり、刑法で罰せられる。オズは幾度も起訴され、何度も刑務所暮らしをした。2007年までの間に合計8年以上刑務所で過ごしたという。その後も、裁判沙汰は後を絶たず、罰金判決を受けていた。

一方で、オズの作品を評価する動きもあり、2009年から2013年にかけて、計10回の展覧会がハンブルクやベルリンのギャラリーで行われた。ハンブルクのギャラリー「ONE ZERO MORE (OZM) Artspace」のサイトでは、今もオズが紹介されており、作品も販売している。

1984年、2度目にドイツにやって来たとき、ケルンの語学学校で使用したドイツ語の教科書には、スイス、チューリヒのグラフィティ・アートの巨匠、ハラルド=オスカー・ネゲリを紹介する文章があった。中級クラスに編入した初日に学んだのが、このネゲリについての文章であり、クラスメートとグラフィティ・アートの是非についてディスカッションした。ネゲリは現在76歳。70年代に「チューリヒのスプレーヤー」として活動を始め、有期懲役や罰金刑を言い渡されつつも、アーティスト活動を続け、公共建築の壁などに印象的な作品を残している。彼がスプレーで描いた作品群には、2004年に修復され、保存されているものもある。

オズの行動は、その10年前から活動していたネゲリと同じ議論を呼んだ。芸術表現の自由と器物破損の葛藤。残念ながら彼は、その作品が正当に評価されないうちに、逝ってしまった。

彼の「スマイリー」は目も口元も止めが利いていて、とても愛らしい。カラフルな抽象画には優れた色彩感覚がある。暗い冬にハンブルクの街を歩くとき、誰もがオズの「スマイリー」を目にして、心を温めたはずだ。私もそのひとり。私の90年代はオズとともにあった。

(この文章は2015年9月に書いたものです。なかなか写真を撮りに行けなくて、アップするのが遅くなってしまいました。)
 
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